世の中には、たくさんの「育児道具」が売られています。大型の専門店もあるし、いつでもどこでもインターネットで購入することもできます。
4歳の息子と歩んできたこれまでの年月の中で、私は一体どんな育児道具を購入してきたのだろうかと、この記事を書くにあたって改めて振り返ってみました。
育児道具はその名の通り、育児をまっとうしていくうえで欠かせない道具、もしくは便利な道具のことを呼ぶのだと思います(たぶん)。
そういった視点から振り返ると、我が家は必要最低限のものしか買ってこなかったなあ。しまったー。わちゃあ。ということに気がつきました。
ああ、バンボ! ああ、バウンサー! ああ、ベビーベッド!
ああ……。買っときゃ良かった……。
今さらですが、ちょっと後悔しています。
ただ、そんないいかげんな私にも育児道具を通じて生まれた、息子との大切な思い出は一応あります。あって良かったです。
それは息子との「おまる」を通じた「トイレトレーニング」です。
2人でたくさんお話しをして、そして何度も失敗し、最後には喜んで。遊びのようで遊びでない。そんな不思議な感覚の中での息子との共有体験は、とても印象深いのものでした。
■ おしっこいきたい! おしえてくれる?
ちょうど息子が2歳になるころ、息子の通う保育園では「おむつをしながらでもおしっこやうんちに行きたくなったら先生に教えてね」「できそうだったらトイレでしても良いですよ」というような話しかけが行われていました。
私も息子が2歳になったらトイレトレーニングをやってみようと思っていましたので、保育園での取り組みの延長として、家でも実践してみることにしたのです。
まずは「おまる」と「お兄ちゃんパンツ(普通のこども用パンツのことをなぜかそう呼びます)」を数枚用意しておき、それを見せながら息子とこんなお話をしました。
「じょうずに遊べるようになったし、じょうずに走れるようになったし、本当に大きくなったね。もう、おにいちゃんみたいだね」
「うん」
「じゃあ、もうおにいちゃんだからさ、これからはおむつをやめてこのパンツを履いてみよっか?」
「はくー!」
「よし。じゃあ、これからはおしっことかうんちに行きたくなったら、ちゃんと言ってくださいね?」
「うん」
「よし。じゃあ、これからはおしっことかうんちは、この“おまる”でしてくださいね」
憧れのお兄ちゃんパンツを履いた息子は、とても喜んでくれました。しかし、目的はお兄ちゃんパンツを履かせるということではなく、おまるで用をたすということ。
本当にできるのかな? そう心配しながらも、とりあえずはそのカッコイイお兄ちゃんパンツを息子に履かせてみることにしたのです。
が……。
だだ漏れです。
そりゃあそうです。そう簡単にはいきません。
しかも「やっぱりおまるでしたくない」ということが後から分かり、本当に焦りました。けれど、一度お兄ちゃんパンツを履かせたのに、うまくできないからと言ってまた紙おむつに戻すのは、余計に息子を混乱させてしまいます。
まあ、でも、なんとかなるか。うまくいってもうまくいかなくっても、いつかはできるようになるよね。あまり深く考えすぎず、たとえだだ漏れであっても、おまるは嫌いだけどお兄ちゃんパンツは履きたいみたいだし、そのまま継続してみようかな。
そう思い直し、新たな作戦を考えてみることにしたのです。
■ 2歳のトレーナー。
ちょうどそのころ、私の息子はイヤイヤ期の真っ盛り。あまりしつこくやりすぎると言うことを聞いてくれなくなります。「なんでできないの?」「こうしないからダメなんだよ」という言動は特に。
ただ、小さなこどもは面白いことや自分が優位に立つことは好き(うれしい?)みたいですから、息子へ「教える」ことはもうやめて、それを逆にうまく利用してみようかと考え直してみたのです。
トイレトレーニングを「させられる」側ではなく、息子を「させる」側に立たせてみようかなと。つまり、私が息子にトイレトレーニングをしてもらおうかなと。そう思いました。
翌日、その作戦を実行するべく早速、私はリビングで遊ぶ息子のもとへ行き、苦悶の表情でお腹を押さえ「おしっこ! おしっこ!」「どこでしたらいい?」などと言いながらトイレの仕方が分からないフリをしてみたのです。下手な小芝居ですが真剣に。
その間もズボンを下ろそうとしてみたり、モジモジしてみたりして。
すると不思議そうな顔をした息子が「ここでしちゃだめだよ!」「といれはあっちだよ!」と、思いのほか良い反応を見せてくれたのです。そして、まだおまる(トイレ)でしたことがないとはいえ、知りうる限りの知識を振り絞りながら、私をトイレまで連れていってくれたのでした。
言うまでもなく変な作戦だと思います。ですから息子もはじめは不思議そうな顔をしていました。けれど、これを何度かやっているうち、息子も「またかよ。しかたねえな」というようなニヤケ顔で、私をお世話してくれるのでした。そして、息子自身も私をお世話する中で「ズボンを脱ぐ→パンツを脱ぐ→おまるに座る→出す」という順番を、次第に覚えていってくれたのです。
息子は大抵は2、3時間に1回くらいのペースでおしっこが出ていましたので、その間隔の中でなんとなくおしっこをしたそうな顔やモジモジしだしたときには、再びこの小芝居をしてみます。
そうすると、今度は私につられて「ぼくもおしっこいく!」と言えるようになり、やがて念願のおまるにも自然と座れるようになりました。おまるはトイレのすぐ目の前に置いてありましたので、私も用をたすフリをして「あぶなかったね、もれちゃうとこだったね」と息子の気持ちに寄り添うようにしていました。ひとつの行動をお互いに共有する感覚とでもいうのでしょうか。それが、息子には言葉で説明するよりも幾分か理解しやすいものだったみたいです。
ただ、そうは言ってもまだ2歳。
「おしっこにいきたい!」という気持ちと、勝手に漏れてしまうという生理現象は、そう簡単には一致しません。おまるに座る前にダーッと漏れてしまったり、「うんちでたー!」と完全にパンツの中で出しきった後に報告してきたりして……。
けれど、それでもそのまま息子を信じて継続していくと、その辺の感覚が次第に一致し、自ら「おしっこ!」と叫びながら私に報告できるようにもなりました。
息子は、今もですが、当時から何事にも慎重なところがありました。しかも運動が苦手というおまけつき。ですから言葉で説明したり感覚的に習得するというのは、ちょっと難しいかもしれないなと思ったのです。
「一緒にやってみる」、そして「失敗しても良いよ」というメッセージとセットで向き合うことが、息子への理解に繋がったのかもしれません。
■ 漏らしてもいいよ。
子どもに何かを教えるときは、ついつい上下関係のようになってしまい、思わず叱ったり、しつこく口を挟みそうになります。ですが、トイレに行けるようになるということは、私の課題ではなく息子自身の課題ですから、「息子自身がトイレにいきたい(やってみたい)と思うようになるときをじっくりと待ってみる」というのも大切なことだなと、トイレトレーニングを通じて学んだような気がします。
育児は複雑なもので、産まれたばかりのときは「元気でさえいてくれたらそれでいい」と思っていたはずなのに、いざ育児の日々がはじまると周囲の目が気になったり、「◯◯歳になったらこれだけのことはできるようにならないといけない、させないといけない」という変な義務感に襲われたりしてしまうことがあります。
その子どもなりの成長があるはずなのに、教科書通りにはいかないと分かっているのに、なぜか知らぬ間に育児そのものの意味をはき違えてしまうことがあります。生きていくうえでは「元気でさえいてくれたらそれでいい」わけにはいかもしれないけれど、次第に追い詰められてしまうような親からの言葉は、やはり悲しいものです。
私自身、息子と楽しくやっていたつもりのトイレトレーニングでしたが、あるとき、おしっこを失敗してすごく悔しそうな、あるいは悲しそうな顔をした息子が、濡れたズボンを私のところに見せにきたことがありました。
息子は漏らしたという行為がすなわち「悪いこと」だと単純に考えますから、私に「叱られる」「怒られる」とでも思ったのかもしれません。おねしょをしたときも私に「ごめんなさい」と言ってきました。
ズボンを濡らしても、おねしょをしても、一度も叱ったことも怒ったこともありません。それなのに息子は「悪いこと」をした、と考えちゃうんです。
だからこそあえて「漏らしてもいいよ」「おねしょをしていいよ」「私も小さいときはしょっちゅうお漏らししてたからね。そんなのしかたないよー」と笑いながら息子へ伝えていました。そりゃあ、できてほしいとは思うけれど、できない現実もちゃんと受け止めてあげようと。そして、お漏らしをすることは全然「悪いことなんかじゃないんだよ」ということを知ってもらうためにも。
こうして、私と2歳の息子とのトイレトレーニングは無事終えることができました(たぶん)。
あれから2年。
今ではちゃんと自分でズボンとパンツを下ろし、あちこちにまき散らしながら(残念ながら)何とかやっています。ただ、そこはやはり4歳のこども。「(まき散らすのはともかくとしても)とりあえずは、もう大丈夫だろう」と安心なんかしてしまっていると、時に突然の落とし穴にはまることがあります。
先日4歳の息子とツタヤに行ったとき、息子はしゃがみながら、大好きな仮面ライダーのDVDを「どれにしよっかなー」と少し興奮気味に選んでいました。それがとにかく楽しすぎたみたいで、しかもしゃがんでいるものですから、無意識の内に漏らしてしまったんですね。うんちを……しかもだいぶ大っきいのを……。
後ろにいた私はすぐにそれを匂いで察知し、息子を担いでトイレへと緊急避難いたしました。
あぶなかったです……。
そのときは近所ということもあり、さすがに着替えは持っていってなかったものですから、その後のスーパーでの買い物など、あらゆる予定が狂ってしまったことは言うまでもありません。ノーパンですからね。
ただ、そうやって「夢中になりすぎて出ちゃった」というような、大人では少し理解できないような息子の姿も、「おかしいねえ」と笑い飛ばし、ありのままに認めてあげることで、良い思い出へと変わっていきます。
■ おわりに
2歳のころに始めたトイレトレーニングが、私にとっては、息子をただの小さな子どもとしてではなく、ひとりの人間として向き合うきっかけとなり、息子との人間関係を築く一歩になったのではないか、と思っています。
それまでは「お世話をしてあげている」と感じることの方が多かった、あるいは、私がいなければ何もできない、そう勝手に決めつけていた育児だったような気がしていましたので。
笑ったり悲しんだり(漏らしてしまって)、成功したときには一緒に喜んで。はじめて息子とふたりで何かを共有し、共感し、そして達成することができたトイレトレーニング。
味気ないデザインの安物の「おまる」だったけれど、私にとっては大切な思い出がつまった「育児道具」です。
が……。
そんな大切な思い出のおまる。トレーニングが終了したにも関わらず、その辺に放置したままにしていたりすると、知らぬ間に遊びの魔王によって見るも無残な姿へと変えられてしまうという現実だけには、どうかご注意くださいませ。バッキバキ。
おわり。