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「待って無理」「しか勝たん!」――オタク構文はなぜ“使いたくなる”のか?大学教授に聞いてみた

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「待って無理」「〇〇しか勝たん」「5万回言ってるけど」などなど、推しへの愛を叫ぶときに使うことの多い“オタク構文”。SNSでもしばしば取り上げられ、日々新たな言い回しが誕生しています。

私たちはなぜ、推しへの愛を語るときに特別な言葉を使いたくなるのでしょうか? 今回は日本語の歴史を研究する明治大学 文学部 教授・小野正弘さんに「オタク構文」がどのようにして生まれ、オタクたちの間で受け入れられていくのかについて、一緒に考えていただきました!

お話を聞いた人:小野正弘さん

明治大学 文学部 日本文学専攻教授。専門分野は日本語史。日本語の各単語の意味がポジティブなものになったり、ネガティブな意味を持ったりする“変化”について、その背景や要因などの研究に取り組む。著書に『オノマトペ 擬音語・擬態語の世界』(角川ソフィア文庫)などがある。

HP:小野研究室のホームページ

私たちはなぜ“大げさな表現”をしたくなるの?

――今日はよろしくお願いいたします。小野先生の専門分野は日本語の意味変化とのことですが、例えばどのようなものなのでしょうか?

小野先生(以下、小野):いわゆる日本語の「語彙」について、その言葉に与えられている意味が変化することに関心をもって研究しています。例えば「温室育ち」という言葉がありますが、元々は世間知らずな人をさすネガティブな意味の言葉でした。でも近年では「大切に育てられた人」という肯定的なニュアンスも含むようになり、少し意味合いが変化してきているんですよ。

オンライン取材に回答してくださる小野先生

取材はオンラインで実施しました

――「オタク」もまさにそうですね。

小野:そうですね。私が学生だった頃はオタクといえば機械系の知識が豊かで、そこに執着しているような人物を指していました。いわゆる「メガネで、長髪で……」というイメージのオタクですね。現在は機械系に限らず「その分野の知識が豊かで、詳しい人」というプラスのイメージもありますし、世の中の人も「自分は◯◯のオタクだ」と表明することに抵抗がなくなっているように思えます。こうした変化の背景や要因について研究しています。

――そんなオタクですが、趣味や推し活をしているときによく使われる言い回しがあるように思います。「待って」とか「しか勝たん」とか、「5万回言った」のような大げさな表現も含め、自分の趣味仲間と話すときやSNSでの投稿でよく使われているように思いますが、オタクがなぜこうした“オタク構文”を使うのか、小野先生のご意見を伺えますか。

小野:推しへの思いを表現するとき、人は「自分にとってこれだけ大きなインパクトだった」ということを伝えたいわけです。自分だけが知っている・感じ取ったものなんだという気持ちで発信したいと思って、通常の言葉遣いでは足りないから新しい言葉を使って、あるいはより大きな数字を使って表現するのだと思います。

「好きすぎる」というのも推し活でよく使われますが、「すぎる」というのも本来は「値段が高すぎる」とか「やりすぎる」のようにマイナスの意味で使われる言葉です。それをあえて「好き」とか「美しい」とかに使うことで、そんなタブーをおかしても推しへの愛を表現せねばならない、他の人に伝えたいという気持ちが表れていますよね。

「いいね!」と思って使う人がいるからこそ、オタク構文は広まる

――推しへの愛を表現するときに新しい言葉を使うと、ともすれば「よくわからない」と思われたりもしそうですが、なぜ私たちはすんなりとオタク構文を理解できているのでしょう……。

小野:まず言えることは、それが日本語の「コード」にしっかりと組み込まれているからですね。コードというのは言葉の上でのルールや約束ごとのようなもので、その言葉を使ったコミュニケーションをする上で欠かせないもの。

例えば先にお話ししたような「◯◯すぎる」も、本来の使い方(悪い意味)とは反対のニュアンス(よい意味)を伝えたいというだけで、意味自体は元々の「過剰な状態」から変化していません。だからこそ同じように日本語でコミュニケーションする私たちは意味をスムーズに理解できるというわけです。

――確かに、“すぎる”の意味はそのままです。

小野:自分だけの新しい表現ができると、それはそのまま推しへの愛の強さの証明のように感じられますし、「推しのことをこんなに好きなのは自分だけなんだ!」という“快感”にもつながるので、いろいろなオタク構文を使ってそれらを表現しているのかもしれません。

――オタク構文っていろいろ生まれていますが、どのようにして発生するのでしょうか。

小野:いわゆる「若者言葉」のようなものもそうですが、スタートはやはり「今のコミュニケーションをよりよくしたい」という思いではないでしょうか。

ルーマニア出身の言語学者エウジェニオ・コセリウによれば、言語変化は「改新と採用」で説明できるのだそうです。改新というのは今までになかったようなもの、あるいは今まであったものを少し変えたもの。それらが生まれるだけではなく、採用=使用されることによって、言語は変化していきます

言語変化の第一歩である「改新」が起こるのが、まさに「現状では物足りない」という状態です。「好きだ!」だけでは表現しきれない推しへの愛とかね。もっと意味に重みを持たせたい、強めたいといった欲求から新しい言葉は生まれていきます。

例として「しか勝たん」について考えてみましょう。

――しか勝たん! よく聞きますね。

小野:「だけ勝つ」でもよくないですか?

――えっ……。それだとニュアンスが……。

小野:そうですね(笑)。「◯◯しか(ない)」という表現は江戸時代から見られますが、「◯◯しか勝たん」と「◯◯だけ勝つ」の違いは、否定形のもつ独特の強さだと思います。「しか勝たん」は、推しとそれ以外が競って推しが勝ち残ったのではなく、推し以外ははじめから勝負になっていない、全滅であるという強い表現なんです。

推しの魅力について、他の追随を許さない強烈なものであるということを表現するために、誰かが「しか勝たん!」と言った。それを聞いた他の人もその言葉の強さを感じ取り、使い始めた。つまり採用され、ここまで広まったわけです。

昔の人は、大きな感情をどのように表現していた?

――オタク構文のような大げさな表現って、いつごろからあるのでしょうか。

小野:私の研究領域は西暦700年ごろ、奈良時代のあたりから現代までですが、712年にまとめられたという『古事記』のころからありますよ。例えば日本列島の誕生を描いた「国生み」のお話などでも、天の浮橋から潮をかき鳴らして引き上げたときに滴り落ちた潮のしずくが島になったといいます。神話だからといえばそれまでですが、おそらく現実にはありえない描写ですね。

その他にも、悔しさや悲しみの表現として「血の涙を流す」とか、歌謡曲なんかでは「涙が川になる」という言い回しも少なくありません。

――和歌にも「袖をしぼりつつ」 なんて表現がありますね。そう思うと、昔から大きな感情を表現するのに、書き手はオーバーな表現を選んできたのかも。

和歌を詠む平安貴族のイラスト

小野:明治以降になると、リアリズム小説が増えるためかこうした表現は減り、「◯◯なくらい」といった比喩表現が増えているのも印象的ですね。胸が張り裂けそうなくらい悲しい、とか。

――オタク構文はそこを比喩にせず、現実かのように言い切ることでより強さをとがらせている気がします。

小野:確かにそうですね。推しの魅力に対して「待って! 無理!」と反応するのも、自分の意思にかかわらず推しが魅力的すぎる、というニュアンスがあります。これ以上は無理! って。それくらい好きだ、魅力を感じている、という表現なんですね。

オタク構文は残っていく? 定着する言葉の条件とは

――こうした表現は、今後どのように変化していくと思われますか。例えば流行語などで、その後定着したものはどのような傾向がありますか。

小野:受け取ったときのインパクトと、短くて使いやすいものは残りやすいように思います。

例えば残らなかったものは、どうしても意味が瞬時に理解しにくいんです。「話がピーマン」という言葉があったのですが、わかりますか?

――どういう意味だろう……。

小野:ピーマンの中身が空洞であるのと同じで、話の中身がなくてわかりにくいという意味の言葉なんですよ。……というのを、いちいち説明しないと理解してもらえない。こういった言葉は一部の人の間でしかやりとりされないので、そのまま廃れてしまいます。

反対に、形を変えて残っているものもあります。80年代に、驚きを表現する「ゲロゲロ」という言葉が流行りましたが、ここから「ゲロまず」「ゲロうま」という表現が生まれ、廃れていくのかと思ったら「ゲロかわ」という言葉で復活を果たしました。短くてわかりやすく、インパクトがあるから、受け入れられたわけですね。

――そう考えると、今使われているような巧みなオタク構文は、一部の人たちで共有するものだからなかなか残りにくいのかも。

小野:そうかもしれません。ただ、言葉ってその時代ごとではなく、世代ごとに使われるものなんですよ。例えば社会人になってからも、学生時代の友人と会うときにはタイムカプセルを開けるように、そのころの言葉遣いになったり、当時の言葉をそのまま使ったりすることもあるでしょう。だから、今の20代は、40代や50代になってもその言葉を使っていくと思いますよ。私なんかも、学生時代の友人と会うと「この肉、死ぬほどうまいね!」なんて言いますから(笑)。

オタク構文に限らず、一部の人たちの間で使われる言葉というのは、各世代の人がそれぞれに持っていて、時や場所に応じて引き出しから取り出すように選んでいくものだと思います。

オタク構文に疲れてしまったら

――オタク構文がよく使われていて面白いなと感じる一方で、オタクでない人や特に上の世代の人からよく思われていないような気がすることもあります。先生が「ここは気をつけてほしい」と思うことはありますか。

小野:私は「日本語の変化」が研究対象なので、新しい言葉や表現が生まれることには大賛成なんです!(笑)

ただ、あまりに急激な変化はそのコミュニティの外側の人にとって混乱を招いてしまうかなとも思っています。例えば言葉の意味を真逆にしてしまったら、受け取った側はどちらの意味なのかわからず困ってしまいますよね。

一つ基準として持っておくとよいのは「公の場所で使えるかどうか」。例えば就職の面接で「御社しか勝たんと思いましたので、エントリーさせていただきました」と言えるか、ですね。推し活の場や気心の知れた友人との会話で使うぶんには、気にしすぎる必要はないと思いますし、どんどん新しい表現が生まれるのが楽しみでもあります。

――オタク構文に慣れてしまうと、これまで使ってきた言葉もなんだか陳腐に感じてしまったり、かといって、普通の表現では推しへの愛が足りていないのではという気持ちになってしまったりと、なんだか疲れてしまうこともあるんです……。

小野:新しい言葉は、インパクトや独自性があるほど多くの人に使われる傾向があります。それゆえに見かける頻度も高くなり「陳腐だな」と感じるようになるまでの、いわば寿命が短いんですね。

これはある意味では防ぎようのないことなので、無理にインパクトを持たせたり、オタク構文を使わなくてもいいのではと思いますよ。

「愛が足りないのでは」というのは、「他の人からそう見えるのでは」という不安であることも多いと思います。元々推し活やオタ活は、自分と推しの関係性で成り立っているものです。

他の人と比べてモヤモヤしなくても、推しがいる、例えば歌手なら歌を歌ってくれる、それだけで十分だ、好きだ、とシンプルに思えていたときがあったのではないでしょうか。そんな“原点”に帰り、自分のなかで「好き」という気持ちを育てるのもよいと思います。

――確かに、他の人の目が気になったり「あの人は表現が上手だな」と思うからこそ疲れてしまうこともあるのかもしれません。では反対に、自分の気持ちを表すのにもっとふさわしい表現を見つけたい! 巧みな表現をしたい! と思ったときにはどんな方法で上達できるでしょうか?

小野:新しい表現を身につけたいと思ったなら、ぜひ本をたくさん読んでほしいですね。本は面白い表現の宝庫です。比喩のうまい作家の小説や詩、和歌、軍記など、いろいろなジャンルにチャレンジしてみると、また新しい推しへの愛の表現に出会えるかもしれません。

――小野先生、ありがとうございました!

聞き手:藤堂真衣