はじめまして。「おとよめ」というブログで、女性向けマンガのご紹介をしている、いづきと申します。男性です。
今回、"おすすめのいくえみ綾作品"というテーマで寄稿の話をいただいたのですが、いくえみ綾作品というと、ちょうど6月20日(火)に最終回となるドラマ『あなたのことはそれほど(あなそれ)』や、映画化もされた『潔く柔く』などが有名ですよね。
『あなたのことはそれほど』や『潔く柔く』は、シリアスな恋愛が軸となる物語。まさにいくえみ綾作品の王道という感じなのですが、実はポップな恋愛や、キラキラの少女マンガも描いているし、家族モノや、恋愛要素薄めのヒューマンドラマ、果ては猫エッセイまで、実に幅広く魅力的な作品を生み出しているのです。
そこで、ドラマや映画で『あなたのことはそれほど』や『潔く柔く』は知っているけど、ほかはそんなに知らない……というような人を想定して、私が思う「いくえみ綾作品の幅の広さがわかるような作品」をピックアップしてみました。また、私自身男性ということで、男性目線での楽しみどころなども交えつつ、ご紹介できればと思います。
- 家族モノはいくえみ綾の真骨頂/『かの人や月』(全3巻)
- きらびやかなバブル期のテレビ業界が舞台/『愛があればいーのだ』(全2巻)
- 平凡な"私"の日常を物語にしてしまうすごさ/『私がいてもいなくても』(全3巻)
- 短編なのに驚きの黒さ/『プレゼント』(全1巻)
- お口直しには青春の匂い立つラブコメを/『オススメボーイフレンド』(全1巻)
- 関連リンク
※ 編集部注:以下には、作品内容に触れる情報が含まれています
家族モノはいくえみ綾の真骨頂/『かの人や月』(全3巻)
いくえみ綾作品で物語としての面白さが一番出るのは、実は「家族モノ」なんじゃないかと個人的には思っています。さまざまな作品で家族モノのエピソードは描かれているのですが、中でも完成度が高く、終始明るく温かい雰囲気で進む『かの人や月』は、大のお気に入り。
物語の舞台となるのは、祖父・祖母、父・母、そして子ども3人が共に暮らす大家族の羽上家。にぎやかで騒々しい日々を送る羽上家の日常を、子どもたち3人の視点から描き出していきます。
長男はイケメンだけど偏屈な社会人、長女は物静かで内気な女子大生、そして次女は明るく社交的な女子高生と、全員まったく違う生活圏・性格の持ち主。一つの出来事をとっても、視点が変われば違った景色が見えてくるもので、3人それぞれの視点から1話ずつ同じイベントを取り上げ、それぞれの物語を描き上げてしまうその構成力には、驚かされるばかり。
周囲を彩るキャラクターたちも、たくさん登場しながら誰一人として被っておらず、素敵に無理なく個性的。ホームコメディをベースとしつつも、恋愛要素を交え、長男含めてなんやかんや素敵ないくえみ男子が登場してくるところも抜け目ありません。
・いくえみ男子とは……いくえみ綾作品に登場する男性キャラの総称。人間的には不完全で、欠点や弱さやがある一方、女性の心を捉えて離さない魅力に溢れているのが共通した特徴。一口に「いくえみ男子」といっても、実はそのタイプはさまざま。
いくえみ綾作品として押さえるべきポイントは押さえつつも、全体的に明るい雰囲気でモノローグは控えめ。会話中心で進行するため、読者の間口の広い作品じゃないかと思います。いくえみ綾作品を初めて読むという人にも、入り口の一つとしてぜひともおすすめしたいです。
きらびやかなバブル期のテレビ業界が舞台/『愛があればいーのだ』(全2巻)
日常を舞台に、内面の機微を繊細に描き出すことが得意とされるいくえみ綾作品の中で、バブル真っ盛りのきらびやかな芸能界を舞台にした変わり種の作品がこちら『愛があればいーのだ』です。
主人公は男性で駆け出しのAD、水谷由輝(よしき)。そしてその相手役となるのが、売れっ子の女優となった元同級生の美津子(みつこ)。学生時代は地味で目立たなかった彼女の魅力を、自分が見出し支えるも、付き合うには至らずやがて離れ離れに。そんな2人が、数年ぶりに再会を果たして……というお話。
本作は華やかな舞台設定ながら、纏う雰囲気は切なさややるせなさ先行。元同級生だけど、今となっては駆け出しのADと売れっ子女優という大きすぎる立場の違いを前に、一歩踏み出す勇気も生まれずにウジウジと煮え切らない由輝の姿が描かれます。
いくえみ綾作品といえば、なんといってもいくえみ男子ですが、こと本作のように終始男性視点で描かれると、その情けなさや女々しさが際立って、全然格好よくないから不思議。一方で、男性が読めばめちゃめちゃ親近感が湧くのも事実。
高嶺の花にビビったり、相手に対して変に期待してしまったり、都合よくお隣に住んでいる美人のお姉さんが自分に想いを寄せてくれていると思ったり……。この辺は顕著ですが、本作はどこか男性向けの文脈で描かれている節があり、男性が読んでも楽しめる作品だと思います。
平凡な"私"の日常を物語にしてしまうすごさ/『私がいてもいなくても』(全3巻)
『愛があればいーのだ』の紹介部分で、いくえみ綾作品は「日常を舞台に、内面の機微を繊細に描き出すことが得意」と書きましたが、それを突き詰めた結果、ちょっとやりすぎてなんとなく地味な感じになってしまったと思うのが『私がいてもいなくても』。いや、なんだか落としたような表現になってしまいましたが、褒めてます。
物語の主人公はもうすぐ19歳になるフリーター・昌子(しょうこ)。彼氏はいるし、バイトもしているし、それなりになんとなく生きている。そんな彼女は、ひょんなことからかつてのクラスメイトで今はマンガ家をしている友達の手伝いをすることになり……というところからはじまる物語。
何も問題はないはずなのに、どこか満たされない気持ちを抱えている晶子。その源泉は、
- 浮気をしてしまう恋人
- 空気を読まない友達の発言
- マンガ家として成功した友達に対するコンプレックス
- 家を出た兄の存在
- 兄にしか興味を示さない母との不仲
……など、大きいものから小さいものまでさまざま。
実はこれらに共通しているのは、自分自身が必要とされている感覚を得られていないということだと思うんです。晶子の抱える生きづらさは、まさにタイトルの「私がいてもいなくても」という言葉に集約されています。晶子が感じる小さな違和感や棘を、覆い隠すこともなく徹底して読者にぶつけてくるのが、本作の面白いところ。
社会で漂流しつつ、自分の価値や居場所を見出そうともがき続ける晶子の姿が、ネガティブな要素も相まって、強い共感を生み出します。また、ちょっとしたがんばりや、晶子にかけられた優しい言葉もやけに心を打つのです。
振り返ってみれば、ごくごく“普通の人”の“普通の日常”が広がっているだけなのですが、それを物語として成立させてしまうところがすごい。日常を描きつつも、いわゆる雰囲気で持っていく日常系とは一線を画しており、物語の輪郭はハッキリとしています。
あ、男性向けのおすすめポイントを忘れていました。このお話は“共感”が一つの重要な要素になるので、晶子と同じようなバックボーンを持っているかが、物語を楽しめるかどうかのポイントかと思います。
先に挙げた自分の「存在価値」について自問自答するのは、男女限らず持っている可能性があると思うので、引っかかるものがある、という人は手にとってみるといいかもしれません。
短編なのに驚きの黒さ/『プレゼント』(全1巻)
『あなたのことはそれほど』でいくえみ綾作品を知ったという人は、きっと「いくえみ綾=ドロドロした作品」という印象が先行していることでしょう。『あなそれ』はいくえみ綾作品でも群を抜いてドロドロ感が強い作品だと思うのですが、それに対抗できそうなインパクトがあるのが本作『プレゼント』。
3話完結の表題作のほか、読み切り2編が収録されています。このうち、最後の1編『あなたにききたい』が、読み切りでありながらインパクト抜群でとんでもなく黒いのですよ。しかも単行本全体でいい流れが続いた先での仕打ちなので、初めて読んだときは戸惑い、本当に衝撃でした。
まず、表題作の『プレゼント』がすごく感動的なお話なんです。主人公・亜希(あき)のクラスには、火事で大やけどを負い1年やり直すことになった年上の女子生徒がいて、意図せず彼女を傷つけてしまったことが、主人公のその後の人生にちょっとした影響を与えます。傷つけてしまったことへの後悔は、まさにやけどの痕のように主人公の心に深く残り続けるのですが、その治癒の過程を、13歳、18歳、21歳と時間とともに追っていきます。
笑いで外すとところはしっかり外し、友情だとか人間関係の気まずさみたいなものを絶妙なバランス感で読ませるのはいくえみ綾だからこそなせる技。男女問わず幅広く、いろいろな人に読んでもらいたい物語だと思います。
で、そんな感動作の後に収録されているのが『おうじさまのゆくえ』。こちらはアホで前向きな男子が主人公の、明るくポップなラブコメ。何も考えずに、ただただ楽しめるラブストーリーだと思います。こちらも『プレゼント』とはタイプが違うけれど、幸福度はまたしても高く、良い流れ。
……というところに続くのが、問題の『あなたにききたい』。同窓会に参加したヒロインが、別に仲良くもなく地味で目立たなかった女子から、なぜだか積極的にアプローチを受け、意気投合するのだが……というお話。
いかんせん短編の話なので内容は多く語れないのですが、読後感は率直に言ってものすごく悪いと感じました。最初から終始違和感と共に物語を読み進めることになるのですが、その正体が発露した後の救いのなさがもう。
収録されている『プレゼント』『おうじさまのゆくえ』がハートフルな物語だっただけに、そこからの落差がものすごく、「最後にとんでもない"プレゼント"を貰っちゃったな」なんて思ったものです。
お口直しには青春の匂い立つラブコメを/『オススメボーイフレンド』(全1巻)
いくえみ綾の代表作といわれるような作品は、恋だの愛だのしているだけでなく、人の死だったり心の大きな傷があったりと、どこか重たげなテーマが混ぜ込まれつつ展開するのが通例だと思います。その一方で、すっきり爽やかな明るい恋愛ものも描けるんですよ、というところでおすすめしたいのがこの『オススメボーイフレンド』。
物語は、ごく普通の女子高生と男子高生の恋を、それぞれの視点から1話ずつ描いた内容。人懐っこく無邪気な男子・荒木を好きになった主人公・貴恵(たかえ)ですが、その思いを告げることができずに、いつしか彼は別のキレイな先輩と付き合うように……という、切なさ混じりの青春物語です。
少女マンガでは実にオーソドックスな設定なのですが、ひねった設定を入れないからこそ、そのマンガ家の魅力がストレートに出やすいのも事実。この作品の場合、短いながらもしっかりといくえみ綾作品のツボを抑えた内容になっているのですよ。
まずはヒーローの荒木が、無邪気に人の心を捉える明るいアホっぽい、いわゆるいくえみ男子的キャラクターであること。また物語は、最初に貴恵の視点から、そしてその次に荒木の視点から描かれ、男女両方の視点でその心の内を描き出し、味わい深さが加わっています。さらにあらすじにもある通り、簡単には恋を成就させず、きちんと切なさを回収してから前向きな結末へ向かうことなど、シンプルな物語ながら、一つ一つ“気がきいている”のです。恋に落ちて、恋に泣いて、恋に喜んで……そんな当たり前を、男女の感覚の違いも落とし込みつつ、絶妙の間合いと台詞回しで描き出しています。
少女マンガ的でありながら、ありがちな甘々な展開はなく、また男性視点から描かれることもあり、男性読者にとっても比較的とっつきやすい恋愛ものなんじゃないかと思います。短い中に、いくえみ綾の明るい側面での魅力がぎゅっと集約された、隠れた名作と言えるのではないでしょうか。
ということで、以上5作品を紹介させていただきました。今回はご紹介できなかったのですが、『I LOVE HER』や『トーチソング・エコロジー』、『彼の手も声も』など、ほかにもおすすめしたい作品はたくさんあります! ともあれ、この記事をきっかけに、いくえみ綾の沼へと足を踏み入れる人が一人でも増えてくれれば幸いです。
著者:いづき
女性向けマンガのレビューブログ「おとよめ」管理人。
子供が生まれ、マンガの読み方・感じ方が変わってきたと感じる今日この頃。
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