それどこ

これぞジャンプマンガの「原液」だ。囲碁のルールなんかそっちのけでワクワクしてしまう『ヒカルの碁』

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囲碁を題材にした『週刊少年ジャンプ』の名作『ヒカルの碁』の魅力を文筆家の上田啓太さんにご紹介いただきます。進藤ヒカルと塔矢アキラの特異で強烈なライバル関係など、囲碁のルールを知らなくても作品を楽しめる理由について深掘りします。

「誰もが知るあの名作を、いつか自分も楽しみたい」
「でもお金も時間も体力も有限だから、名作に手を出す“きっかけ”がほしい」

……と日頃から考えている方も多いでしょう。

そこでソレドコでは、「今から読んだり観たりできるのがうらやましい!」というテーマで名作をセレクト。各ジャンルのコンテンツに精通する書き手の皆さんに、その名作の魅力を余すことなくご紹介いただきます。

今回、文筆家の上田啓太さんがセレクトしたのは、囲碁マンガの金字塔『ヒカルの碁』です。

なぜ、面白く読めてしまうのか分からない。

それが連載当時からの謎だった。『ヒカルの碁』はタイトルどおり囲碁を題材にしたマンガなのだが、私は囲碁を打ったことはない。碁石を手にしたことさえない。それなのに明らかに面白く、夢中で読んでしまう。ページをめくる手がとまらなくなる。

もちろん、未経験の題材がテーマでも面白く読めてしまうマンガはたくさんある。同じ『週刊少年ジャンプ』の作品ならば、自分にとっては『スラムダンク』がそうだった。しかし、『ヒカルの碁』が特異なのは、読み終えても囲碁のルールはそれほど分からないことなのだ。

これは偉そうに言うことではないのだが、私は『ヒカルの碁』を何度もしつこく読み返しているわりに、囲碁のことはよく分かっていない。分からないままに読んでしまえて、興奮があり、昂揚があり、感動がある

これはたぶん、『ヒカルの碁』が「少年ジャンプ的ワクワク感」を極度に抽象化した作品だからなのだと思う。ジャンプマンガの構造をむきだしにして、その魅力を抽出して、読者の喉に原液で流しこんでくるような、そんな作品なのだ、『ヒカルの碁』というのは。

囲碁の超エリートがド素人に「敗北」

物語の冒頭で「強烈なライバル関係」が提示される。具体的には、進藤ヒカルと塔矢アキラの関係性である。

これは、『ドラゴンボール』の悟空とベジータ、『スラムダンク』の桜木と流川に匹敵するほどの魅力的な関係性だと、私は考えている。

物語の主人公である進藤ヒカルは小学6年生の男の子で、囲碁にはとくに興味をもたずに日々を過ごしていた。そんなヒカルが祖父の家で古い碁盤を見つけて、棋士の幽霊に取り憑かれるところから物語ははじまる。

そしてライバルとなる塔矢アキラが登場する。主人公の進藤ヒカルを「そのへんにいそうな普通の男子」とするならば、ライバルの塔矢アキラは「そのへんには絶対いそうにない男子」である。

アキラは現役最強のプロ棋士を父に持ち、そんな父と幼少期から囲碁を打ち続けてきたエリート中のエリートで、小学生にしてプロ試験を受ければすぐに合格するだろうと言われるほどの実力を持ち、あまりに強過ぎるため同世代に敵はおらず、父の門下生である年長の大人たちと当たり前のように日常的に打っている。アキラは自分がズバ抜けて強いことを自覚しているから、同い年のヒカルと対局する時もごく自然に「ハンデはどれくらいにしようか?」とたずねてしまうほどだ。

そんなアキラが、ド素人のヒカルに敗北する。

「粘着質のライバル」こそ名作の源泉

いや、正確にはヒカルではなくて、ヒカルに取り憑いた幽霊である「藤原佐為(ふじわらのさい)」が打っていたのだ。そして、佐為は囲碁の歴史上でも最強と言われるような実力の持ち主だから、アキラの敗北も当然のことなのだ。

しかし、幽霊である佐為の姿はヒカル以外には見えない。そのため、アキラはヒカルに負けたのだと思いこむ。碁石の持ち方さえなっていない、明らかに初心者のヒカルに、子供の頃からひたすら囲碁に打ち込んできた自分が敗北したのだ、と。

そしてアキラは、ヒカルという存在に猛烈に執着しはじめる。

「粘着質のライバルがいるところ、名作の湧き出る泉あり」と私は常々主張しているのだが、アキラはヒカルとの対局をひとりで何度も碁盤に並べ直しては延々と考え、ふたたびの対局を待ちのぞみ、「誰と打ってもキミのことばかり考えている」とヒカルに面と向かって言ってしまうほどに、ヒカルのことで頭をいっぱいにしていく。

もちろん、実際に打っていたのはヒカルではなく幽霊の佐為である。だからこれはシンプルにアキラの「誤解」ではあるのだが、読者として思わず興奮してしまうのは、アキラの熱に感化されたかのように、初心者だったヒカルの中にも、囲碁への情熱が芽生えはじめることなのだ。

自分が打ったのではなかった。史上最強である佐為の指示のままに打ってみたら、自然とアキラに勝利してしまっただけだ。初心者の自分が打てば、絶対にアキラには勝てない。それでも、これから真剣に囲碁を打ってゆくことで、いつかアキラの「誤解」を「本当」にしたい。

こうして、ヒカルとアキラのあいだに、特異で強烈なライバル関係が生まれる。作中のアキラの言葉を借りれば「ボクはキミを追い、キミはボクを追う」ような関係性である。

囲碁の基本さえ知らない読者を「ワクワク」させる秘密

この、ヒカルとアキラの関係性を軸にして、他にも多くの魅力的な棋士を登場させながら物語は進んでゆくのだが、あくまでも題材は「囲碁」である。

大半の読者は囲碁のルールを知らないし、盤面の複雑な状況を読むことはできない。それを前提として、『ヒカルの碁』は絵とセリフと演出の力で勝負する。あらゆるマンガ技法を駆使して、「盤面で起きている白熱の戦い」を、囲碁の基本さえ知らない読者にも伝達してゆく。

夢中でページをめくりながら、ふと気づく。

このマンガは『ドラゴンボール』のように超人的な格闘シーンを描くわけではないし、『スラムダンク』のように選手の肉体と肉体が激しくぶつかりあう迫力を描くわけでもない。作品の題材も、囲碁という知的で抽象的な競技だ。

それでも、強固な物語の構造と、キャラの表情やセリフの丹念で繊細な描写があれば、「あのワクワクする感じ」を作り出すことは可能なのだ、と。

紹介した作品

上田啓太 SNS:@ueda_keita
文筆業。ネットのあちこちで活動中。著書に『人は2000連休を与えられるとどうなるのか?』『カラッポの主人公 名作マンガ再々読』(ともに河出書房新社) 。